最も大事な「生きる目的」を知らずに生きる、わたくしたちの「流転輪廻」の実態とは。

一休が歌った「流転輪廻」の実態

仏教には、「流転輪廻」という言葉があります。
「流転」というのは、車の輪が回るように、
同じところをぐるぐると回るということです。
同じことの繰り返しとは、辛いことです。

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一休は、

人生は喰って寝て起きて糞たれて
子は親となる
子は親となる 

と、歌いました。

食べていかなければ私たちは生きていけません。
口に入る時は「米」ですが、体から出て行く時は大分異なった形で出て行きますから、
このような字を書くそうです。
夜になればわたくしたちは布団を敷いて休みます。
朝になっても、起きないと人はありませんから、
私たちの人生は確かに、台所とトイレの往復、
また、布団の上げ下ろしの連続で、毎日毎日があっという間に過ぎていってしまいます。

たしかに、「衣食住」事欠くようでは幸福とは言えないが・・・

幸福の「福」という字は、
「衣食住」を表すと言った人があります。
確かに衣食住に事欠くようでは幸せとは言えません。
「示扁(しめすへん)」はチョンをつければ、「衣扁(ころもへん)」。
だからこれは、衣食住の衣。「田んぼ」は食。
「一」と「口」、これは「家」だそうです。
ですから、これが住を表す。

わたくしたちは衣食住満たすために、
つまり、食って寝て起きて、たれて、
これを満たすために毎日毎日大変な苦労して働いております。

夏はたとえ毎日のように、30度以上のひどい暑さに見舞われても、
仕事ならば休むことはできません。
仕事ばかりでお盆休みぐらいはほっとしたいと思いましても、
新幹線は乗車率200%、高速道路も30 km、40 kmの渋滞となって、
ホッとするお盆休みのつもりが帰って疲れて帰ってきた。
仕事が始まるかと思うと、いきなり台風や地震に見舞われ電車もストップする・・・

もし私たちは、食って寝て起きてたれて、
ただこれをするだけの私たちの人生ならば、
近くの家でゴロゴロしている犬の方がよっぽど楽に、
食って寝て起きてたれて、を繰り返しています。

わたくしたちはじっとしておりましても、
ご飯が出てくるということありませんが、
犬や猫であれば毎日毎日の中にゴロゴロしておれば、
時間になったらご飯を出してもらえるわけです。

そうこうしているうちに、「子供が親となり、
またその親が子供を産んで親となる」ということです。

しかし、それで終わりではありません。

私たちは最後、死んで行かなければなりませんから、
一休はまた、

人生は、タライからタライにうつる50年 

と歌っています。

「なぜ生きる」知らず、最後は、棺桶におさまる人間の裸形。

ここで50年というのは、当時の平均寿命ですから、今日はその限りでありません。

最初の「タライ」とは、これは産湯のことです。
わたくしたちは産湯で、体を最初に洗ってもらいます。
最後の「タライ」とは棺桶です。
すわたくしたちは棺桶に入って死んで行きますから、棺桶のことです。

ですから、「人生は産湯から棺桶にうつる50年」、ということなんですが、
それではさすがに芸がありませんから、
タライからタライに移る50年という言ったということでしょう。

わたくしたちは生まれてから死ぬまでの間、
あいもかわらずに、食って寝て起きてたれて、
毎日毎日繰り返して生きております。
いったい私たちは毎日大変な苦労しながら、
なぜ、それを毎日繰り返して生きているのでしょうか。

これが人生の目的であり、なぜ生きる、ということです。
わたくしたちは何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくても生きねばばならないのか、ということであります。

何をするにも目的ほど大事なことはありません。
歩く時でも、走る時でも、泳ぐ時でも、飛ぶ時でも、
目的が一番大事であります。
その生きている私達にとって最も大事な生きる目的を知らずに生きている、
わたくしたちの姿を仏教では「流転輪廻」とは言われているのであります。