根無し草のように、不安定な私達の「浮生」なる生きざまとは。

根無し草のように、不安定な私達の「浮生」なる生き様とは。

仏教では、「浮生」という言葉があります。
「浮生」とは、「浮いた生」と書きますが、
わたくしたちの不安定な生き様のことです。

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ちょうど私たちは海に浮かんだ根無し草のように、
あっちへふらふら、こっちへふらふら、
不安定な生き様をしているということです。

「浮いた生」とは、浮いたものを信じて生きている
わたくしたちの姿ということです。
浮いたものを信じて生きている、ということは
やがて必ず裏切るものを信じて、私たちが生きている
ということであります。

何かを信じなければ、1日たりとも生きてゆけない私たち。

わたくしたちは、何かを信じなければ生きて行くことはできません。
そう、聞かれますと、私は別にを信じているわけではないとか、
特定の仏や菩薩を信仰しているわけではない、という方がおられますが、
わたくしたちは何かを信じなければ1日たりとも生きてることはできません。

たとえば、男性ならば床屋さんに行かれると思いますが、
床屋さんでカミソリを首筋に当ててもらいます。
もし、その時床屋さんが変な気起こして、
あのカミソリを横にいたならば首筋には大きな頸動脈が通っていますから
あっという間に当たりが血の海になってわたくしたち死んでしまいます。

よく、安全カミソリなどと言って小さなT字のカミソリがありますが、
あのカミソリでさえも横に引いたらとジワッと血が出てきます。
その安全カミソリよりも、もっともっとおおきな、太いカミソリが
首筋に当たっていても、わたくしたちはニコニコと
リラックスしながら床屋さんと話をして髪を切ってもらっているのです。
これは、床屋さんを信じなければとてもできないことです。

もし、入った床屋の主人のカミソリ持つ手がブルブルブルブル震えていて、
目線がおかしい、ともなれば、とてもその床屋さんで安心して髪切ってもらうわけにはいきません。

あるいは、電車やバスに乗る時、
この電車は東京へ行くとか、大阪行くとか
目的地を確認してから乗りますが、
東京ゆきと書いてあるのに半分ぐらいは大阪へ行くんじゃないか、とか、
大阪ゆきと書いてあるのに半分ぐらいは東京行くんじゃないか、
そんな風に思ってたら、安心して電車に乗ることもできません。

私達は、身の回りのものを、「信じている」にすぎない・・・

そりゃあ、行き先書いてあるんだから、間違い無く到着できるだろう、
そう思うわけですが、ところが現実には、
先日も新幹線の中で、22歳の男に斬りかかられてて亡くなった人があったように、
私たちは、最後目的地まで間違いなく到着できると思っているのですが、
必ずしも、そうとは言えないのです。
私達は、電車に乗ったら間違いなく目的地まで到着できると、
「信じている」だけのです。

他にもわたくしたちは、明日も1日元気に生きておれると思っています。
これは、私達が命を信じて生きている姿です。
あるいは、自分が何か大きな病気を患うことはなかろうと健康を信じていたり
今朝夫婦喧嘩してきたばかりといっても、やはり家に帰ればほっとする、
という人もあるように、家族が大事です。
お金は財産がなければもちろん生きてゆけません
貯金通帳の残高が減ればなんとなく不安になりますし、
増えればほっととした気持ちになるものですね。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、どんな人も辛い涙を流す時がある。

あるいは、どこの代議士を3期務めたとか、
カラオケ大会で優勝したのか、
自分の部署で成績トップになったとか、
その方の得ておられる名誉や地位など、
わたくしたちはいろいろなものを、心の支えにして生きています。

何を命としているかは一人ひとり全く違います。
しかし、信じているということは、
私たちはそれらのものに裏切られて苦しむ時があるのです。
私達が苦しむのは、信じていたものに裏切られた時だからです。

「病」という字は、やまいだれに「丙」と書きますが、
その病気、その病気、なった人でなければ分からない苦しみがあります。

しかし、病気であれば、奥さんや子供さん家族が介抱してくれれば
心の支えにもなりましょうが、
私たち最後死んで行く時には、どんなに愛する家族も子供もついては来てくれません。
お金は財産も、紙切れ一枚わたくしたちは持って行かないのです。

たとえ70年、80年心のあかりになるものがあったとしても、
やがて必ず裏切るもの信じてわたくしたちは生きているから、苦しみ悩みが離れられないのだ、これが「浮生」なる私たちの実態だと、仏教では説かれているのです。