仏教で説かれる「凡夫」、われわれ人間の実態とは。

仏教では、私たち人間を「凡夫」といわれます。
有名な『歎異鈔』には、私達人間は、「煩悩具足の凡夫」である、と書かれます。
欲や怒り、ねたみ・そねみの煩悩の塊で、悩み続けるのが私達人間だ、
ということです。
「凡夫」、つまり人間とは、煩悩具足であると説かれているのです。

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ちなみに、仏教ではすべての人間を「凡夫」と言われますが、
これを読まれますと、「いやいや、平凡な夫あるではないか」と
言われるかもしれませんが、
仏教では全ての人のこと「凡夫」と言われます
ですから、どんなに有能ですてきな奥さんであっても、仏教では「凡夫」です。

人間は、「煩悩具足」であると説く仏教。

「具足」というのは、それでできているということです。
100%ということです。
100%ですから、私たたち人間から、それを取ったら、
わたくしたちはゼロになるということ。
それが、「具足」ということです。

本来仏教にそのような言葉はありませんが、
たとえて言えば、雪だるまは「雪具足」ということになります。
雪だるまから雪を取ってしまえば何も残りません。
いやいや、炭で目や口をつけるでないかと、言われるかもしれませんが、
それは別にして、のことです。

あるいは、お菓子屋さんなどでチョコレートでできた人形などが
売られていることがあります。
これは、いわば、「チョコレート具足」ということなります。
夏になるとチョコレートが溶けてしまって人形の形もなってしまいますから、
チョコレート人形から、チョコレートを取ってしまえば、
チョコレート人形は0になってしまいます。

ちょうどそのように、わたくしたち人間は、「煩悩具足の凡夫」であるということは、
これは、すべての人、わたくしたちは「煩悩」の塊、「煩悩」100%であると
いうことです。
「煩悩」に目鼻つけて歩かせたようなものが私たちであるということです。
私たちから、「煩悩」を取ったならば、
わたくしたちは0(ゼロ)になってしまうということです。

どんな人も死ぬまでなくならぬ、108の「煩悩」のかたまりである。

では、「煩悩」とは何かと申しますと、
仏教では、わたくしたちを煩わせ悩ませるものと書いて煩悩と言われておりますが、
これは全ての人に108あると説かれています。

108と聞かれますと、「除夜の鐘」の数を思い出されることあると思います。
この除夜の鐘は、私達の煩悩の数から来ております。
いや、去年は108の煩悩によって、大変煩わされ悩まされて、大変な年だった、
来年こそは、煩悩に煩わされ、悩まされることのないようにと、
願いを込めて鐘を突くのでしょう。

しかし、そんな鐘をついたぐらいで、この煩悩がなくなるのならば、
そんなラクなことはありませんね。
わたくしたちは「煩悩具足の凡夫」。
死ぬまでなくならない。
これが煩悩なのです。

死ぬまでなくならぬ「煩悩」で、死ぬまで苦しみつづけるすべての人の実態。

全ての人に108の「煩悩」がありますけれども、
中でもその親玉、大きなものが3つあると
仏教では「三毒」とこれを言われております。
3つの恐ろしい、猛毒の煩悩があるということです。

仏教の言葉で申しますと、

貪欲とんよく。ほしい、ほしいという欲の心)
瞋恚しんに。欲が妨げられた時に出てくる怒りの心)
愚痴ぐち。ねたみ、そねみ、恨み、憎しみの心)

の3つです。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
欲もおおく瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして
臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえず。

私たちはこの三毒の煩悩で、死ぬまで苦しみ続けなければならない、と
仏教では説かれています。
それが「凡夫」、人間の実態だと仏教では説かれているのです。

そんな煩悩さかまく難度の海を、明るく楽しく渡す大船ありと説くのが仏教なのです。