仏教で「死」を、残忍な権力者に例えられたその理由とは。

私達が死ぬこと。
やがてやってくる100%確実な未来でありながら、考えたくない、
いやなことです。

それは、仏教で「死王」と説かれるのは、
いつ何時やってくる、一切の情け容赦の無いものだからです。

 

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いつ何時「無常の風」に誘われるかしれぬわれわれの実態。

仏教では、私たちが死ぬことを風に例えて、教えられています。
有名な白骨の章には、「すでに無常の風来りぬれば」と、
私達が誘われることを、「無常の風」に誘われると表現されています。

私たちは、無常の風に誘われたならばひとたまりもない、
だから、人間は病によって死ぬのではない、無常の風に誘われた時に死ぬ、と
言われております。

風といっても、たとえば、台風ならば対策をすることができます。
今回の台風は、こちらに向かってくる、
自分の住んでいるところに台風がやってくる、となれば、
窓に目張りをしたり、植木鉢を家の中に入れたり、
外出を控えたりして対策をすることができますが、
それは天気予報で台風の進路が予知がなされているからであって、
無常の風はそうはゆきません。
この無常の風はいつどこで吹いてくるか分からないのです。

「無常」は「無情」に通づると言われるその理由とは。

経典にはこれを、「出息入息不待命終」と言われます。
すった息が吐き出さなければ、
吐いた息が吸えなければ、わたくしたちは死んで行かねばならない。

今日は息子の結婚式だから、今日は娘の入社式だから、
1日待ってもらいたいと、言っても待った無し。

囲碁や将棋ならば、待ったということもありましょうが、
無常の前には一切待った無し。
ですから、「無常」は情け容赦ない「無情」に通づると、言われています。

「死」を、残忍な権力者に例えられたその実態

中国は唐の時代、それは中国仏教全盛期の時代でありますが、
その時代に活躍した善導という高僧が、このような言葉を残しております。

無常 念々に至りて、恒(つね)に死王と居す 

私の身の上に必ずやってくる死。
それは、考えたくもないことでありますし、
嫌なことであります。

けれども、それは必ず私達の身の上にやってきます。
しかもそれは早ければ今晩かもしれない、明日かもしれない。
ですから、私達の都合など全くお構い無しです。

ですからそれを、残忍な権力者である王に例えて「死王」と言われているのです。

私たちが、普段生活しております時に気に食わないことがあってでも、
「お前死ね」なんていうことはできません。
しかし、もし権力者であれば簡単にそんなふうに言って、
目の前の人を殺すことができます。

ですから、仏教では、わたくしたちの身の上にやってくる無常を、
そのような残忍な権力者に例えて、「死王」と言われているのです。

「無常念々に至りて」、ということは、
わたくしたちは死と背中合わせであるということです。
わたしたちはつねに死王とともに、暮らしているようなものだと言われているのです。

今一人暮らしをしていると思っておられる方ならば、
死王と二人暮らしでいるんだということです。
ご夫婦で住んでおられる方ならば、
そこには死王が一緒に住んでいることです。

ところが、わたくしたちは家に帰りましても、
疲れた~と風呂でゆっくりと入って、のんびりしておりますのは、
その死王とともに住んでいることを、スッカリ忘れているからだ、と
いうことでしょう。

しかし、私がたちが思うと思わざるとにかかわらず、
無常の前には待った無し。

入院している高齢の人を見舞った家族が、
帰りに交通事故で死ぬということがありますように、
わたくしたちは「無常」の前には同い年と言われるのはそのことです。

「老少不定」の実態を解き明かし、覚醒を促すのが仏教

ですからこの世は「老少不定」
年齢の高い方が先に亡くなられ若い者が後から死ね、
そんなことは決まっていないということです。
私たちはいつ死んでゆかねばならないか、全くわかりません。

ちょうど、長さの違う3本のろうそくが立っていたならば、
風のないところであれば、ロウの短いろうそくから順番に消えて参りますが、
強い風が吹いている中にそのだ3本のろうそくが晒されたならば、
風に吹かれたろうそくから消えてゆく。

「死王」にわたくしたちは何時襲われるかわからない、普段はすっかり忘れていても、
それがわたくしたちの実態だ、忘れてならぬと仏教では説かれているのです。