「難度の海を度する大船」あり、と説く仏教。

仏教とは、ひとことで、「難度の海を度する大船」。

仏教とは何かと尋ねられたらばいろんな答え方がありますが、
「難度の海を度する大船」、説かれています。

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ここで仏教では、わたくしたちの苦しみ悩みの絶えない人生を
荒波の絶えない海に例えて「難度の海」と仏教では言われております。

重荷背負うて、果てしない道ゆくあなたの人生

江戸幕府を開いた徳川家康は、

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し

と言い残してなくなっております。
この言葉を座右の銘にする人もあるぐらいですから、
多くの人が納得しているということでしょう。

家康が、「人の一生」はということは、
どこか隣のおじさんのことではありませんから、
「俺の一生は」ということです。

「重荷を背負って」ということは、ラクな重荷はありませんから、苦しみの重荷です。
重荷を背負っている人の気持ちはただ一つ。
早く降ろしたいということです。

スーパーでたくさん荷物を買いこんで、
ビニール袋の紐が指に食い込んでいる時に、早く降ろしたい、
駐車場の車まで言って早く降ろした、家について荷物置きたい。
誰でも思います。

ところがあの家康でさえも、「遠き道を行くが如し」
重荷背負うて、死ぬまで果てしない道を歩き続けなければならなかった
と言って亡くなっています。

「幸せが待っている」と信じて、登ってきたけれど・・・

昔の人はこれを山登りに例えて、

越えなばと 思いし峰に来てみれば
なお行き先は 山路なりけり

と、歌いました。
一つの山を登ったならば、また次の坂道が待っている。
その坂を越えたならば、また険しい坂道が待っている。
いつまで私たちはこの山道を登り続けなければならないのだろうか、ということです。

「そろそろいい人、見つけないといけないよね」と、言われるから結婚。
結婚すると子育てが始まります。
そうすると子供さん中心にあっという間に人生が流れてゆく。
いつまでも借家住まいでは大変ですから、家でも建てれば、
20年、30年と、ローンも組まなければなりません。

そうこうしておるうちに子供があっという間に育って、
ようやく夫婦で静かな時間がもてると思ったならば、
ちょっと健康診断に行った時に再検査が必要ですね、と言われたりするのです。

この坂を越えたなら 幸せが待っている
そんな言葉を信じて 越えた七坂四十路坂

心に残る、都はるみさんの『夫婦坂』ですね。
「そんな言葉を信じて」ということは、
「その言葉に裏切られた」ということです。
「この坂を越えたならば幸せが待っている」。
そう、信じて夫婦で手を携えて登ってきたはずなのに。

ふと鏡を見てみると、「あら、こんなところにシワがあったかしら。
こんな所にシミがあったかしら。あら、こんなところに白髪があったかしら・・・・」。

そしてやがては「六十路坂」、そして「八十路坂」。

「難度の海に大船あり」。大船に乗るための人生、と説く仏教

まさに仏教で言われるように、わたくしたちの人生は「難度の海」

しかし私たちは決して、その「難度の海」で溺れ続けるために
生まれてきたのではない、生きているのではない、
その「難度の海」を明るく楽しくを渡す、「大船」に乗るために
生まれてきたのだと、仏教で説いています。