年始にまず、あなたとシェアしたいとても大事なこと。

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去年の漢字は「北」

年が明けて今日は2日目。

毎年発表される、今年1年を表わす漢字、去年は「北」でしたね。
これがみんな、相当脅威と思っているということ。

でもこのことは、ぼくらの人生において、
すごく大きな示唆を与えてくれている。

それについて、今日は少しシェアしてみたい。

ところでなぜぼくらは、「北」を脅威と感ずるのだろうか?

誰しもみな、死にたくない。

それは要するに、ぼくらの「命」に直結するからではないだろうか。

早い話ミサイルが飛んできたら、
みんな死んでしまう。

人間、誰しも死にたくない。
だから、死なないように、死なないようにと思って
生きているといってもよい。

飛行機のシートに4番のシートが無い。

「4」は「死」に通づると嫌うのだろう。
そもそも、あんな重たい鉄の塊が飛ぶこと自体不思議だし、
堕ちる時には、4番のシートだけ堕ちるなんてあり得無いんだから、考えてみたらおかしなことだが、それほど思い浮かべるのも嫌なんだろう。

”やがて「死」が来るという事実に、真面目に向き合え”と説く釈迦の教え

ところが、お釈迦さまは、

無常を観ずるは、菩提心の一なり。

と説かれた。

「無常」とは、常がない、続かないこと。
ただ、中でもインパクトの大きなものは、「死」だから、
要するに、ぼくらの人生が、必ず終りを迎えるという厳粛な事実のことだ。

「観ずる」とは、「ありのままみる」こと。
観察、観光の「観」、の字が使われている。

ここで、大事なことは、「感」でないということ。
「北」のニュースをテレビで見て、「怖い!」って誰しも思うだろうけれども、そんなのは一瞬だ。
コマーシャルになると、もう忘れてしまう。
四六時中そんなこと、考えていたら何も手につかないし。

だから、本当の意味で、自分の人生には必ず終りがくる、なんて、「感じる」ことはできない。できたとしても一瞬だ。

だからこそ、「観る」と言われている。
真正面から見る。
イヤなことだけれども、向き合え、ということ。

いやなことだけれども、すぐに忘れてしまうけれども、
おれの人生は、あなたの人生も、必ず幕切れが来るんだよ、
ということ。

しかも、人の死ぬ時期なんて、決まっていない。

しかもそれは、早ければ今晩かもしれない
これは決して、極端な話じゃない。

だって、現実に大晦日にも、元日にも
必ず、命を落とす人があるわけだから。
人の死ぬ時期について、年末年始のお休みがある、なんて聞いた事が無い。

それに真正面から向き合え、と釈迦は説いたのだ。

生ある者は必ず、死に帰す。
これは、世のならいです。
そんな厳粛な事実を、ありのまま見つめる。

ところがこう言うと、だから、仏教はイヤだ、
死ぬとか、そういうことばかり言うから、
気分が暗くなってイヤだ、年始早々エンギでもない、という人がある。

果たしてそうだろうか?

仏教は悲観主義か?

現実から目を背けて、正しい判断や道を選ぶことができるだろうか?

できるはずがない。

だから、お釈迦さまは、仏教の出発点は、
死をありのままに見つめることだと説かれている。

なぜか。それがまぎれもない現実だから。
そしてそれをみんな忘れて生きているから。

だからそれは、決して、
いたずらに暗く沈むことではない。

それはむしろ、生きている一瞬一瞬を、
日輪よりも明るくする第一歩なのだ、と。

「菩提」とは本当の幸せと考えてよいから、
「やがて必ず死んでゆかねばならない私の姿を、
ありのままに見ることが、本当の幸せへの第一歩である」
言われている釈迦の言葉だ。

「一」と書いて、「はじめ」と読むその意味は、第一歩ということ。
第一歩とは、無ければ二歩目も三歩目も無いから、
ここからしか始まらない、ということ。

人生に終りがあると自覚するだけで、あなたの人生はガラリと変わる。

「北」にどう対処するか?
それは勿論大事なことだ。

でも実は、その根っこにあること。
「北」に討たれようが討たれまいが、
ぼくらの人生には必ず終りが来る、ということ。

これを、毎日自覚するだけで、あなたの人生は必ず変わる。

このことをを、年始に是非あなたとシェアしたかった。

そして最後にもう1つ大事なことを言うとすれば、釈迦の説いたことは、そんな無常の世にあって本当の幸福とは何か、ということだった。