「寺」とは、あなたが「人生の宿題」を果たす場所なのだ。

ささやかながら、うれしいニュース。自宅での法話開催が実現。

しばらく更新に時間がかかってしまった。
いつも読んでおられた方々には、あいつ入院でもしたんか?と、
ご心配をおかけしたまったかもしれず、申し訳ありませんでした。

昨年末から少しずつ更新してきたブログだが、
ここへ来て発信スタイルの変更をしてみようと思い立ったところから、
気がついたらだいぶ時間がたってしまっていた。

 

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先日ついに念願の、自宅での法話が実現した。
昨年から住み始めた家は、大きな仏壇もあり、しっかりとした仏間もあるから、
これはできるんではないか?、と家をシェアしている人たちと話していたのだけれども、先日ついにそれが実現した。

上の画像が、仏間の写真です。

今年はここから近隣の皆さんだけでなく、こうしてブログを読んでおられるあなたにも、仏教の教えを発信していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

寺の本来の目的は「聞法」

仏教の教えを聞くことを、「聞法」という。
寺の本来の目的は、「聞法道場(聞法の場)」である。

そう聞かれるとあなたももしかしたら、
「仏教の教えを聞く、って何を聞くの?」
「座禅や瞑想が仏教なのでは?」と思われるかもしれない。

まして、寺と縁があるのは、せいぜいお葬式や、盆や正月の墓参りくらい、という
方も多いだろうから、一層「??」かもしれない。

しかし、仏教は人が死んだ時に用事のあるもの、では断じてない。

「平生業成(へいぜいごうじょう)」の教えを聞く

では、「聞く、聞く」と言うのだが、何を聞くのだろうか?

いろいろな言い方があるが、今日は「平生業成(へいぜいごうじょう)」という言葉を
紹介したい。

この言葉、強信な地域などでは、「平生の行い」というような意味で
使われているようだ。

確かに、「業」という言葉は、仏教では「ごう」と読み「行い」という意味があるから、何となく、そういう意味に解釈するのもうなずけるような気がする。
しかしそれでは「成」が説明できない。

この言葉は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の教えから来ているから、
その正しい意味も、そこに源流を求めなければならない。

まず、「平生」とはそれほど問題ないだろう。
生きているとき、ということだ。元気なただ今、ということ。
仏教といえば、死んでから用事のあるものと思っておられる方には、
意外かもしれない。

「業」とは、大事業の「業」の字を書いて「ごう」と読む。
大事業と聞くと、オリンピック開催とか、スカイツリーを建築するとか、
ぼくの住んでいる北陸でも新幹線が開通したから、そんなインフラ整備とか、
そんなものを思い浮かべるかもしれない。

しかし、これはいわば、「人生の大事業」だ。

あなたにもある「人生の宿題」。それは「幸せ」になること。

「人生の大事業」とは、「人生の宿題」とも言えよう。

中学校の先生が卒業式に、黒板に書いた「人生の宿題」

人生の宿題。これは先生の出す最後の宿題だ。
それは、君たち幸せになれ、ということ。
この宿題は、焦って出しにこなくてもよい。
もしかしたらそれを聞くころ、先生は天国に行っているかもしれない・・・。
でも君たち、幸せになれ。

読んだとき、ええ先生やな~と思ってしまった。

そう、あなたの人生にも宿題がある。
それは、「幸せ」になること。

しかもそれは、今日幸せだけれども明日はどうなるかわからない、
そんなものでなくって、今日も明日も、ずっと続く幸せだ。

そんな、本当の幸福、いわば「絶対の幸福」をここで、「業」の一文字で表わされる。

そんな幸せに「今、なった」ということがあるから、達成、完成の「成」の字で
それを表わされているのだ。

あなたも、そんな幸福になれる。

誰でもそんな幸福になれる。
そんな道を仏教に説かれているのだ。
仏教を聞きそんな「人生の宿題」を果たす場所。
それが、本来の「寺」なのだ。

自宅の法話もそんな場所でありたい。
今年はそんな情報をもっと発信してゆきたいと思いますので、よろしくお願いします。