ならぬ堪忍、するが堪忍。しかし究極的には、 我が身の出世本懐に向かえるかである。

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心の強い人になりたいと思うあなたへ。

仏教では、いろいろな善が説かれているのだが、
その中の1つに、忍辱(にんにく)がある。

よみかたは、「にんにく」なのだが、
決してこれはガーリックのことではない。
堪え忍ぶことを、忍辱と呼ぶ。

ある和尚さんが、
「これ小僧たち、堪忍(かんにん)の2字が大事じゃぞ!」
と言い聞かせると、小僧達、
「か・ん・に・ん、では4字でないですか、和尚さま」
「こりゃ小僧たち、堪え忍ぶと書いて2字じゃ!」
「あら、和尚さま、こ・ら・え・し・の・ぶでは、
また2字増えて6字でございますよ?」
「え~い!小僧たち、ええ加減にせんかい!」
ポカポカ頭を殴りつけた。

それを見た1人の小僧、ケラケラ笑って、
「堪忍の 2字か4字かは知らねども
 こらえしのぶぞまことなりけり」と歌った。

 

まあ、これくらいの堪忍ができないようでは
初級レベルもクリアできぬ笑い話だが、ならぬ堪忍、するが堪忍、とも言われる。

 ならぬ堪忍、するが堪忍、なのだが・・・

山本五十六語録にいわく。

苦しいこともあるだろう。
言いたいこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。
これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。 

うーむ。いい言葉だ・・・などと思うのは、
おれももう若くないということか・・・
などと思う今日このごろだが、そんなことはどうでもよい。

 

仏教では、忍辱に3つあると教えられる。
(ちょっと難しいので抵抗ある方は、
説明は飛ばして読んでいただいても構わない)

○人が自分を怨み憎しんで、種々の害を加えてもそれに耐え忍んで、
報復の心を起こさない「耐怨害忍(耐忍)」。

○順境に処しても逆境にあっても安然として心を乱さず、
得意な時も失意の時も毫も心を動かず安らかに忍ぶ「安受苦忍(安忍)」。

○そして、主観客観ともに真空無我の道理をあきらかに体得した人には
加害者、被害者などの差別もなく無我の大忍に安住できる「諦察法忍(諦忍)」 。

 

怒りは無謀に始まり後悔に終わると言われるとおり、
腹が立ちそうな時に心を鎮め、冷静に対応する。
これが、ぼくらが普通思いつく忍辱だが、
着目してみたいのは、2つめの「安受苦忍(安忍)」だ。
得意の時も失意の時も、毫も心を動かさないという。

こんなことは、基本的にムリだと、と思われるかもしれないが、
少しでも目指してみたい境地だと思う。

ちなみに、その時心がけるべきことは2つだと思っている。

 今から、あなたが心がけるべき2つのこと

1つは、自分の行動が自分の未来を決める。
だから、今の自分の未来は、自分が責任を持って選択せねばならない。

これを忘れてはならない。

では、今の私はどんな行動をとるべきなのか?

得意であれ、失意であれ、さっと、そう問いかけることだ。
失ってはならぬもの、捨ててもよいものが見えてくるはずだ。

そしてもう1つ。
自分は何がしたいのか?
その目的は何か?

これがおそらく、最も大事だ。

最初に示したように、行動を「選択」するのは、あくまで自分であって、
誰かにさせられるのではない、という行動基準を持つことは極めて重要だが、
その時、目的が明確でなければならない。

ここが意外に見落とされがちな点なのだ。
なぜ自分はそれをしたいのか?
では、その理由となる目的は?
それは、自分にどんなメリットをもたらすだろうか?

少なくとも、3回は問いかけよう。
そこに、見えてくるものがあるはず。

究極的には、我が身の出世本懐に向かえるかどうかが問題となってくるのだ。