もしかしたら、私達とエスキモーの人たちと、 見ている世界は違う。

知り合いで、言語学を専攻して、今は大学の教職として
務めておられる人がありまして、お話を伺う機会がありました。

日本は四季折々、色彩豊かに風景が変化する国で、
一口に緑といっても、いろいろな緑があります。
若草色、黄緑色、萌黄色、エメラルドグリーン、青緑色、などなど。
青、赤、なども同様です。

ところが、エスキモーの言葉では、緑を表す言葉は、1つしかないそうです。
というより、青との境界も曖昧だとか。

逆にエスキモーの皆さんの言葉で、多くの選択肢があるのは、
白を表す言葉だそうです。
雪の白、しろくまの白、氷の白、雲の白、などなど。
雪と氷の世界に住んでいると、一口に白といっても、
多様な白を、区別するそうです。

私たちは、どう世界を認識したかを、言葉で表現しますが、
使う言葉によって、世界の規定の仕方が変わるようです。

もしかしたら、私達と、エスキモーの人たちと、
見ている世界は違うのかもしれません。

ジャガイモ、りんご、さつまいもを、日本人は、
どこで線引するでしょうか。
さつまいもとジャガイモは、ともに「イモ」として共通です。

ところがフランスでは、ジャガイモは、「土のリンゴ」と言うそうですから、
驚きです。

蝶と蛾は、どこが違うのか。
羽を閉じて止まるのが蝶、羽を開いて止まるのが蛾です。

どちらかといえば、ちょうちょはかわいい、
蛾はグロテスクで害虫というイメージを多くの日本人は
持つのかもしれませんが、フランス語では、
どちらも、「パピヨン」で、区別がないようです。

同じ「赤」といっても、ポストの赤を思い浮かべる人もあれば、
トマトの赤を思う人もある。
ワインレッドという人もあれば、
濃いピンクと思う人もあるでしょう。

同じ言葉を聞いてさえ、思い浮かべるものは、千差万別です。

ましてや、2人の人が共通して見ているものも、
同じものを見ていると言い切れるでしょうか。

目の前の風景が、ある人には通い慣れた道であり、
別の人にとっては初めてやってきた見慣れない街角です。

それまでの経験が各人各様だからです。

お釈迦様は、自業自得と説かれて、
自分の運命は、自分の行いが作り出すと説かれました。

私達の行い(業)はすべて、結果(運命)を生み出す力(業力)を、
持っており、その目に見えない力は、私達の奥底の
心に収まります。
そして、その各自の造った業の生み出す世界で生きているのが私達だと
説かれているのです。

私達は、自らの業が作り出した世界に住まいしており、
他人の世界を垣間見るさえできないと、お釈迦様は説かれました。

広く深い人間の孤独。

その解決を教えられのが、お釈迦様でありました。

 

写真: 知り合いで、言語学を専攻して、今は大学の教職として
務めておられる人がありまして、お話を伺う機会がありました。

日本は四季折々、色彩豊かに風景が変化する国で、
一口に緑といっても、いろいろな緑があります。
若草色、黄緑色、萌黄色、エメラルドグリーン、青緑色、などなど。
青、赤、なども同様です。

ところが、エスキモーの言葉では、緑を表す言葉は、1つしかないそうです。
というより、青との境界も曖昧だとか。

逆にエスキモーの皆さんの言葉で、多くの選択肢があるのは、
白を表す言葉だそうです。
雪の白、しろくまの白、氷の白、雲の白、などなど。
雪と氷の世界に住んでいると、一口に白といっても、
多様な白を、区別するそうです。

私たちは、どう世界を認識したかを、言葉で表現しますが、
使う言葉によって、世界の規定の仕方が変わるようです。

もしかしたら、私達と、エスキモーの人たちと、
見ている世界は違うのかもしれません。

ジャガイモ、りんご、さつまいもを、日本人は、
どこで線引するでしょうか。
さつまいもとジャガイモは、ともに「イモ」として共通です。

ところがフランスでは、ジャガイモは、「土のリンゴ」と言うそうですから、
驚きです。

蝶と蛾は、どこが違うのか。
羽を閉じて止まるのが蝶、羽を開いて止まるのが蛾です。

どちらかといえば、ちょうちょはかわいい、
蛾はグロテスクで害虫というイメージを多くの日本人は
持つのかもしれませんが、フランス語では、
どちらも、「パピヨン」で、区別がないようです。

同じ「赤」といっても、ポストの赤を思い浮かべる人もあれば、
トマトの赤を思う人もある。
ワインレッドという人もあれば、
濃いピンクと思う人もあるでしょう。

同じ言葉を聞いてさえ、思い浮かべるものは、千差万別です。

ましてや、2人の人が共通して見ているものも、
同じものを見ていると言い切れるでしょうか。

目の前の風景が、ある人には通い慣れた道であり、
別の人にとっては初めてやってきた見慣れない街角です。

それまでの経験が各人各様だからです。

お釈迦様は、自業自得と説かれて、
自分の運命は、自分の行いが作り出すと説かれました。

私達の行い(業)はすべて、結果(運命)を生み出す力(業力)を、
持っており、その目に見えない力は、私達の奥底の
心に収まります。
そして、その各自の造った業の生み出す世界で生きているのが私達だと
説かれているのです。

私達は、自らの業が作り出した世界に住まいしており、
他人の世界を垣間見るさえできないと、お釈迦様は説かれました。

広く深い人間の孤独。

その解決を教えられのが、お釈迦様でありました。

──────────────────────────────
お釈迦様45年間で何を教えられたのか。2時間でお話しています。
http://japan-buddhism.com/