仏教の出発点といわれる、「後生の一大事」とは?

屈指の名文と称される「白骨の章」

昨日、法話をさせていただいたところへ、国語の先生がいらっしゃっていた。
そこで、古文の読み方について教えていただいた。

昨日話をしていたのは、蓮如上人の「白骨の章」
室町時代に書かれた屈指の名文と言われる。

 

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

 昨日ご縁があった方にも、葬式の時に読まれるのを聞いたことがあるから知っているよ、という方があった。
ひととおりその内容をお話したので、意味を知ることができてよかった、と。
そう言われると、私も嬉しくなる。

ちなみに、その国語の先生のご指摘の箇所は、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて

だった。

「誰」は、現代は「だれ」と読むが、室町時代の読み方では「たれ」だと。
その方が趣がある、とおっしゃる。確かにそうだと思った。
なるほど一つ勉強になった、そんな一コマ。

「後生の一大事」とは?

では、「誰の人も後生の一大事に心をかけて」と言われる、その「後生の一大事」とはどんなことか?

実はこれが、仏教の出発点と言われるとても大事なところなのだ。
仏教は「後生の一大事」を知るところから始まり、その解決で終わる、と言われる。
自分は何十年も仏法を聞いている、しかしいま一つ分からない、と言う方が
あるとすれば、おそらくこの「後生の一大事」が分かられないのが原因であろうと思う。

「後生」とは、死ねば「後生」だ。
ぼくらは100%死なねばならない。
これは、誰も否定することのできない事実。

いくら平均寿命が延びた、といっても、
それは死ななくなった、のではない。
どんな人も100%免れられないことには違いがない。

北陸を襲う予想外の大寒波。

ここしばらくの寒波、あなたの地域はどうだっただろうか。
ニュースでご存じの方もあろうけれども、北陸はヒドイ状況だった。
今年3回目の大寒波で、本当に大変だった。

特に石川と福井の県境から福井市内にかけての8号線は、3日間動かなかったというから、本当に大変だったと思う。
それに比べたら自分の地域は、まだまだマシだったんだと知った昨日。

トラックの運転手の方など、対向車線は動いているのだから、引き返してしまえばよいのに、というテレビのコメンテーターもあったが、
寒い地域で困っておられる皆さんに、俺らが荷物届けなかったらどうする、と
断固として目的地を目指している。
ガソリンの減りを気にして、エアコンも調節しながら凍えて、
風呂もトイレも自由にはならないだろう。
そんな中、ずっと頑張っておられた方々があったのだ。

まさか今日、出先の車内で死んでしまうなんて・・・

しかし、驚いたのはその渋滞の中、車中の50代の男性が遺体で発見された
排気ガスは、車が止まり、マフラーが雪で埋もれ、排気口が塞がれ、
エアの設定が外気交換になっているとすぐに車内に引き込まれる。

すると、20分も経たないうちに、一酸化炭素濃度が致死量に達ししてしまうという
驚きの事実を知った。
しかも、一酸化炭素は臭いがないから、何かだるいな、と思っている間に、
昏睡状態に陥り、やがて死に陥るという。
恐ろしいと思った。

50代の男性ならば、勤め先でも重要な役職を果たしておられたかもしれないし、
奥さんやお子さんが父さんの帰りを、心配しながら家で待っておられたであろうに・・・

まさか、今日出先で渋滞につかまり数日動けなくなり、しかもその車内で死んでしまうなんて・・・

そう思うと胸が詰まるような話だった。
ご家族の方々は、どう思われるだろうか。

白骨の章には、

六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

とある。
いくら、親戚縁者がとりすがって、泣き悲しんでも、
死んだ人が生き返るということは、無いのだ。

誰も否定しようのない、これが現実だ。
そして、どんな人にも、この「後生」はやって来る。
それはもしかしたら、明日かもしれない、今日かもしれない。
それは、誰にも分からない。

背中合わせにぼくらが生きているもの。それが「後生」。

だとすれば、実は背中合わせにぼくらが生きているものこそ、「後生」だとわかる。
得体の知れない冷たく、暗い世界と、一息一息が触れあっているのだ。

この実態を、「後生の一大事」を抱えるわれわれの姿と釈迦は説かれた。

親鸞聖人は、9才で出家された。
4才でお父さんを、8才でお母さんを亡くされ、
普通ならば、生きる希望のすべてを失い、
意気消沈して生きる力を失っておられてもおかしくない。

しかし、そんなことも言っておれない、
次に死ぬのは俺の番だ。
死んだらどうなるのか?
杖とも柱とも頼っていたお母さんを亡くされ、どんなに寂しかったであろう。
しかし、心に草鞋を履かせて一歩後生へと踏み込んでみると、真っ暗な心に驚かれた。

とはいえ、そんなこと、聞けば暗くなるだけだし、考えたくない、と
みんな無関心を装いたくなることだから、
蓮如上人は白骨の章に切々とその一大事を説かれた。

我々も、そうなのだから。
関係の無い人はないから「誰の人も」、死はいつやってくるかわからないから「はやく」と言葉を継がれ、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて

と説かれる。
「心にかけて」とは、常に忘れず思い続けて、ということ。
こここそ、仏教の出発点と言われる。

昨日はそんなことを話をしておりました。
寒い雪の中、来られた尊い方々といっしょに、
一時の暖かな時間をいただいたことに、本当に感謝。

ありがとうございました。合掌