新年会で富山湾の旬の寒ブリを丸ごと、さばく
先日自宅で法話を行い、新年会を開催した時のこと。
ちなみに自宅での法話開催に関する記事はこちら:
ホストが寒ブリを富山湾で釣ってきて・・・って、さすがにそうじゃないけど、朝早くから漁港で入手してきてくれて、それを丸ごと家の台所で料理人がさばいてくれた。
これです! ^^↓
刺身、ブリシャブ、窯焼きなどにして来られた方々と頂き、
思いがけぬ、新年会の「ごちそう」だった。
来られた方を精一杯もてなそうとたら、ただ料理を作ればよいというのでない、
まず、食材の調達から仕込みが大変だ。
寒い台所で冷たい水を扱いながら、長い時間立たなければならない。
一口、ぼくらが「美味しい!」と、味わうまでにどれだけの苦労があったのだろう。
深いもてなしの心が無いとできないことだと、つくづく感じる。
山野に分け入り「馳せ、走って」作るのが「ごちそう」
「ごちそう」を漢字で書くと「馳走」だが、
なぜ、ごちそうは、「馳せる、走る」なのか?
料理人によると、今日来られる方を、心からもてなしたいとおもったならば、
その準備は本当に大変で、まさに「馳せ、走る」なのだという。
鮮度を保つために、山菜ならばその朝、山に分け入り採ってくる。
イチジクなどでも、その朝なっている実を採ってくる。
鮮魚でも、タケノコでも、旬のものは、旬の味を本当に味わって
もらおうとしたら、まさに、その朝山野に分け入り「馳せ、走り回って」
食材を集めるそうだ。
「ごちそう」と一言で言っても、そんなふうにして作られるのが
本当の「ご馳走」なんだと聞いて驚いた。
その根底にあるのは、ひとえに相手の方に心底喜んでいただきたい、という究極のもてなしの精神だろう。
あなたの喜びが私の喜び。それが、仏の「慈悲」
仏の「慈悲」は
衆生苦悩、我苦悩
衆生安楽、我安楽
と説かれる。
衆生(すべての人)の苦しみが私の苦しみであり、
すべての人の喜びが私の喜びである。
ふつうぼくらは、誰かが苦しんでいるのを見ると
あまり関わりたくないと別に他人のふりをしたり
他人が喜んでいるのを見ると、何で自分はこんなにつまらないんだろうと思ったりする。
しかし、仏の慈悲は、
「あなたの苦しみは私の苦しみであり、あなたの喜びが私の喜びだ」
という心。
そんな慈悲は、自分本位でしか生きられない私達には本来、無い心だ。
あたたかな仏の慈悲心を私がまるもらいすれば、
冷たい私の心も、熱き大慈悲心に燃やされて本当の幸福になれるのだ。
そんなことを思いながら、ぶりの刺身に舌鼓を打っていた心がほっとになる一時。
仏の慈悲を体現し、お伝えする道をお互い進ませていただきたいものです。合掌