「智恵」は、あなたの未来にくらい闇を破り、本当の安心をあたえる。

仏教で獅子とは「智恵」の象徴。

来月から法話で伺うので、お世話になる方にご挨拶に伺ってまいりました。
ちょうど、年始のシーズンだったので、仏さまからのお下がりのお餅で、
勿体なくもぜんざいをご馳走になり、しばし身も心もほっとなひとときを過ごさせてもらいました。有り難うございました。

 

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これがその画像です。

お椀の蓋にあしらわれているのは、なんと獅子の画像。
格好いいですよね。う~ん、惚れ惚れしちゃう(笑)

仏教で、獅子とは「智恵」を表わすんですね。
人々の迷いを破り、正しい智恵を諦得させる象徴です。

「智恵」とや「闇を破るはたらき」

「智恵」とは、闇を破るはたらきのこと。
「闇」とは「無明の闇」とも言われて、「くらい心」のことです。

「くらい」とは電気が消えてくらいというのもあるが、そういう「暗さ」ではなく、
「ハッキリしない」ことを言うんですね。

地理にくらいといえば、その地域のことが分からないことだし、
ニュースにくらいといえば、今どんなことが世間で起きているかわからないことだ。

でも、ここで言われる「くらい」とは、「未来にくらい」こと。

自分の未来のことが気にならない人は、誰もない。
しかし、その未来がわからない。
まさに、一寸先は闇。

その日は、吹雪の夜だった。一寸先は闇。

つい最近も、北陸もひどい雪に見舞われて、ぼくの住んでいる地域も大変だった。
自宅の水道も風呂も洗濯場も水道がみなフリーズして(本当に凍った)、数日間不自由を味わった。

まあそれはいいとしても、雪道の運転、これがまだ北陸4年目のぼくには、とても怖い。
しかも吹雪の夜は、本当に怖い。

正面から吹雪が吹き込み、ライトは機能せず、前が数メートルしか見えなかったりする。
もちろん、路面をしっかり確認しながら運転する余裕はど無い。

いつも通っている道だったが、
いきなりものすごい音と振動がして、車がガタガタ言い始めた。

それで近くのガソリンスタンドに入ったのだが、予想通りタイヤがパンク。
しかも、左側の前・後輪ともに交換になってしまった。

道路が陥没していて、そこを気づかず豪雪の夜にそこを通ってしまったのだとあとから知った。
その夜は、ガソリンスタンドに、何台もパンクした車が来たらしい。

一寸先は闇。
いつも通っている道路でも何が起こるか分からないと思った。

安心して生きてゆけないのにできない、唯一の原因は「後生くらい心」

本当ならば自分のゆく先に明るくなって、安心して生きてゆきたい。
しかし、それがわからないから、真っ暗な部屋の中で手探りでドアまでたどり着かなければならない時のように、ぼくらはとっても不安なのだ。

そのもとは、仏教では「後生くらい心」だと教えられる。

「後生」とは、死んだあとのこと。

死んだらどうなるのか?

それは、誰にもわからない。

「死」とは、ぼくらの100%確実な未来でありながら、それが真っ暗闇なのだ。
そんな中安心して生きてゆけ、と言われる方がムリなのがわかる。

じゃあなぜそんな闇に気づかずぼくらは毎日生きているのだろう?

それは、自分が死ぬとは、ぼくらはこれっぽっちも思っていないからだ。
だから、その暗さに気づかない。

本当の問題は、「自分が死ぬ」と思っていないこと。

そこに本当の暗さ、怖さがある。
ちょうど目隠しをして崖っぷちに向かって突っ走っているようなものだ。

仏教で言われる「智恵」とは、そんな「闇を破るはたらき」だ。
本当の自己のすがたを自覚させ、未来の不安を一念で根本から破ってしまう。

無碍(むげ)の光明は、無明の闇を破する慧日(えにち)なり。 

弥陀の力は、未来(後生)くらい闇を一念でやぶる、智恵の太陽(慧日)なのだと親鸞聖人はいわれている。

眼光鋭くすべての衆生(人々)を見据える獅子は、そんな仏の智恵の象徴と言われる。
そんなことを思い出しながら、ぜんざいを頂いて来ました。

ちなみに、ぜんざいはとっても美味しかったです。合掌