嫌な人とは、会わなければならないのに、大事な人とは別れねばならない。「会者定離」の世の中

仏教で「会者定離」とはどんなことか?

仏教に「会者定離」という言葉があります。
「会うた者は、必ず別れる時がやってくる」と、いうことです。
会ったっきり、会いっぱなし、ということはありません。
どんなに好きな人とも、必ず別れの時がやってくるのです。

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仏教では、すべての人が生きていく中で必ず受けねばならない苦しみを、
「四苦八苦」と言われます。
「四つの苦しみ、八つの苦しみ」と、いうことですが
すべての人はこれらの苦しみを受けてきてゆかねばならないのです。

どんなに愛するもの、大事なものとも、やがて必ず別れねばならない。

その中に、「愛別離苦」という、苦しみがあります。
「愛」するもの、大事にしているものと
「別離」しなければならない「苦」しみです。
愛するもの、大事にしているものと、やがて必ず
別れて行かねばならない、
離れて行かねばならない、ということがあります。

一方で、嫌なもの、会いたくない人や物とは、会わねばならない。
これを、「怨憎会苦」と言われます。
何が苦しいですか、と聞かれれば、人間関係と答える人は
多いでしょう。まさに、この「怨憎会苦」です。

小学生でも、これらのことに苦しんでいます。
クラスで席替えがあると、この子とは仲がよいから、
席が隣になれば良いのに、と思ってる人は、
クラスの中で離れ離れになってしまったり、
次の年は別のクラスになってしまったり。
あるいは、お父さんが転勤族でその子が引っ越してしまったり。

ところが、どうもこの子とは近くにいたくない、という子とは
ちゃんと席が隣で、一学期、二学期、三学期と全部席が隣、
そして1年生から6年生までずっと、同じクラスだった。
そんなことになるもんです。

嫌な人とは会わねばならないのに、大事な人とは別れねばならない。

まあ、小学生、中学生、あるいは学生時代までなら、
嫌な人が近くにいても、口を聞かなければよいだけですが、
社会人となったならばそうはいきません。

この人とは、どうもウマが会わないという人とは、
3年も5年も机並べて仕事していたり。
逆に、この人とは一緒に仕事したいという相手とは
すぐに別の部署に分かれてしまったり、転勤になったり。

いやな人とは、職場でどうせ会うのだから、通勤の時くらい
顔を合わせないようにと思って、別の道を通ると、
なぜか相手もその道を通り、ばったり出会ったり。

いやな人とは、会わなければならないのに、
わたくしたちはどんなに愛しておりましても、大事にしているものでありましても、
生木引き裂かれるような思いして、別れねばならない時があります。

どんな人も、生木引き裂かれるような別れの辛さを味わう時がある。

東日本大震災で、津波に妻も子供も、家も財産も全て流され、
海に向かって馬鹿野郎と叫びたいけれどもどうしようもない。
仮設住宅で、茫然自失となり、孤独死を迎えられる方もたくさんあります。

仏教では、全ての人はそんな苦しみを必ず受けねばならない、
どんなに愛する人、大事な人とも、生木引き裂かれるような思いして、
別れてゆかねばならないことが、誰にも必ずあるというということです。

これを、「会者定離」、会うた者は、必ず別れねばならない、と言われています。

会者定離 ありとはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしに

ああ、今日がその日であったのか、と
そんな辛い思いをする時が、どんな人にも必ずあるのです。