すべての人を助けずにおれないと、奮い立たれた「仏願」とは

仏教を聞くとは、何をどこまで聞くのか?

先日、自宅で2回目の法話。

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「寺」とは、本来、仏教を聞き「本当の幸せ」になる場所だと、以前に書いた。
だから、いろんな人が集まり、あたたかくアットホームな中にも、しっかりと法を聞ける場にしたいと願っています。

「寺」に関する記事はこちら:

では、何を、どこまで聞くのを、仏教を聞くというのか。

聞と言うは仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し。

 と、親鸞聖人は明快に答えられた。

「何を聞くのか?」、については「仏願の生起本末」
「どこまで聞くのか?」、については「疑心有る事無し」だ。

煩悩具足の凡夫を助けると誓われた「仏願」

「仏願」とは、どんな人も、本当の幸せに助けたい、という仏の願いのこと。
「仏」といってもここで言う仏とは、本師弥陀のことだ。

では、「どんな人も」と言うが、「どんな人も」とは「どんな人」のことか?

「生起」とは、そんなすべての人の姿のこと。
それを、『歎異鈔』に親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と言われる。

「凡夫」とは人間だから、たとえ非凡な才能を持った奥さんでも仏教では「凡夫」である。

大晦日に除夜の鐘を108打つのは、「煩悩」の数から来ているが、
ぼくらすべての人間は、欲や怒りや、ねたみそねみの、「煩悩」の塊だ。

「煩悩」についての記事はこちら:

「肉食妻帯」で自ら波乱を引き起こされた親鸞聖人

親鸞聖人といえば、「肉食妻帯」が大変に有名だ。

当時仏教といえば、どこもみな山にこもって修行するのが当然で、
誰でもそれが本当の仏教だと思っていた。

しかし、親鸞聖人は公然と肉を食べ(といっても、当時は魚だが)、結婚なされた。

ここで、「公然」ということがポイントだ。

ということは、隠れてやっていた者はたくさんあったからだ。

だから、ただ親鸞聖人が結婚されたかったり、魚を食べたいと思った
だけなのであれば、隠れてされればよかったということだ。

しかし、そうはされなかった。
みなさんにわかるような形で、公然となされたことであった。

もちろん、これは自分で勝手にされたことでなく、
お師匠様のお勧めに従ってのことだが、その結果は、大変なことになった。

それは、今日のツイッター炎上どころでない。
京都の町を奥さんと2人で車に乗って移動されると、
足止めを食らっては、石を投げられ、棒で車を破壊され、
「戒律を破った坊主じゃ」、「悪魔だ」と罵られ、それはそれは大変なことだった。

当時の時代情勢からして、当然予想されたことなのだが、
親鸞聖人は断行されてしまった。

つまり、いわば自ら引き起こされた波乱だった。
まさに、炎上マーケティング、どころでない、
ブログが炎上しても、命をつけ狙われるまでは稀だろうが、聖人は命を危険に、自ら晒された。

すべての人に開かれた仏教をあきらかにされた親鸞聖人の「肉食妻帯」

なぜそこまでして、歴史に刻まれる肉食妻帯を親鸞聖人はなされたのか?

仏願の「生起」すべての人
ということは、仏の約束の相手は無条件だ。

ということは、本来どんな人にも開かれた仏教のはずが、当時、
こんな厳しい戒律の守れる人だけ、こんな決まりが守れる人だけ、
こんなルールが守れる人だけ、と、一部の人だけの
限られた人だけのものになってしまっていた。

そうではない。
仏教はすべての人に開かれたものでなければならない。

これはとんでもないこと、と、この仏の願いをあきらかにするために、
大変なバッシングを覚悟で「肉食妻帯」をされたのだ。

もし、親鸞聖人がそうされなかったら、
いまだに仏教といえば、山で修行するもの、と
私もあなたも思っていたに違いない。

親鸞聖人は大変な仏教の大改革をされたのだ。
これは、明治の文豪・夏目漱石なども評する功績だ。

すべての人は「殺生」せずしては生きてゆけないと説く釈迦

釈迦が「肉食」を禁じられたのは、「殺生」の罪の恐ろしさを教える為だった。
だから、山で修行する者は、生き物を殺して食べることを禁じられていた。

では、生き物を殺して食べなければ、殺生していないと言えるのか?

仏教では、生き物を殺す罪を「殺生」というが、
その殺生に3とおりあると説かれる。

(1)自分で生き物を殺す「自殺」
今日で言う、首つり自殺のようなことでない。

(2)他人に命じて殺させる「他殺」
肉屋さんや魚屋さんが牛やブタを殺したり、魚を殺すのは、
肉や魚を好んでぼくらが食べるから。
だから、肉や魚を、肉屋さんや、魚屋さんから買って食べているのは、
頼んで殺してもらっているようなものだから、「他殺」の罪を作っているのだ。

(3)そして、他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪、「随喜同業」と教えられている。
殺されていった動物の肉に、舌鼓を打って喜んでいるのも、このことだ。

 仮に自分はベジタリアンだと言う人があったとして、

たとえ野菜を畑で採るとしても、害虫と言いながら
虫を殺したりしているのだから、殺生と縁のない人は無いだろう。

息を吐いて虫を殺したり、地面の虫を踏まないようにするために、
ほうきのようなもので道を掃きながら歩く人もいるようだが、
決して1つの殺生もしない人が、果たしてどこにいるのだろうか。

そうなれば、「自分は戒律を守っているから、殺生などしてはいない」など、
とんでもない自惚れだ、と聖人はすべての人の実態をすっぱ抜かれたのだ。

どんな人も平等に助ける仏の慈悲

すべての人は、殺生せずしては生きてゆけない、
そんな深い業を持っている。

仏の慈悲はそんな深い業を持つ者にこそ重くかかるでないか。
手の掛らない子よりも、将来が心配な子にこそ親の慈悲はより重くかかるように、
罪の重いものにほど仏の慈悲は、より重くかかる。

そんなものを、死ねば極楽浄土間違い無しの往生一定の絶対の幸福に助けるとの
仏願に疑い晴れた時が、仏教聞いたときなのだと、親鸞聖人は言われている。

だから、親鸞聖人は黙っておれなかった。

どんなバッシングを受けようと、
仏願の生起本末をハッキリ知らされた聖人は立ち上がらずにおれなかった。

そこまで仏教を聞けよと、親鸞聖人は勧められている。

自宅の法話は、あたたかく、アットホームな中に、しっかりと法を聞ける場にしたいと思っています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。合掌