「無常」を見つめることは、決して暗く沈むためではない。それが、本当の幸福への第一歩。

法話に来られた方が、深い悲しみを問わず語りに話された。

先日伺った寺は、初めて法話に立たせていただいたところで、
到着してから法話の始まる時間まで、駐車場の雪かきをしてから、住職と近隣の方にご挨拶に伺いました。

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演題は、白骨の章
内容については、以前も少し触れたが、来られた方が話を聞かれて問わず語りに話されたことが忘れられない。

白骨の章について、前に書いた記事はこちら:
http://ikiteyukutoki.hatenablog.com/entry/2018/02/09/124732

 実はもう15年ほど前にも私は、北陸にいた時があり、
その時に大変よくしてくださっていた方で、当時、毎月自宅で法話を開いておられた。

私の縁のある方が、毎月法話に伺っていたのだが、そのたびに美味しいお寿司を私達にもくださった。
そのお礼のハガキを、今も大事にとっておられるというのだ。
思わず、有難いな、とじーんとしてしまった。

悔やんでも悔やみきれない・・・41才男性の方が転落して亡くなられた

その方は30人ほどの従業員を抱えて会社を経営しておられるが、
勤めておられた41才の親戚の男性が、最近、なんと除雪中に屋根から転落して亡くなられたのだ。
それを思うと、悲しくて悲しくて・・・と、おっしゃる。
それを聞いて思わず息を飲んでしまった。

そのお宅は、20年以上も前から布教使を毎月招待して家族ぐるみで法話を開いておられたのだが、何とか、そこの従業員にも聞かせたいと願っておられた。
そしてそれがようやく実現しようとしていた、
今度家に布教使を呼ぶから、あんたにも仏法聞いてもらいたい・・・と、
そんな矢先の悲しい出来事だった。

だから、それを思うと、白骨の章を聞きながら、悔しくて、悔しくて・・・
そんなことを、法話の休み時間に問わずかがりに話し始められた。

お釈迦さまは、仏法を聞き本当の幸福になったならば、
人間に生まれてよかった、生きてきてよかったという、
心からの喜びが起きるのだよ、と説かれている。

そんな仏法があることを知ってもらいたくて、その日を心待ちにしていたのに・・・
そう思うと、この悲しみをどうしたらよいのか・・・と、
涙ぽろぽろ流されながら、ハンカチで目尻を拭われた。

「行ってきます」と出て行った人が、帰ってこれない時がある。

蓮如上人は、白骨の章に

朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり

と説かれる。

白骨の章が名文と称される一節だろう。朝と夕、紅と白で、見事に対句される。
そんな美しい文章に刻まれた真実の言葉はしかし、限りなく厳しい。

朝は元気な赤ら顔だった人が、夕べにはひとつまみの白骨になって
帰ってくることがあるではないか・・・
誰もが見たくない、しかし厳粛な無常を粛々と美文で説かれる。

「行ってきます」というのは、「行って帰ってきます」、ということだ。
しかし、「行ってきます」と言って出て行ったきり、
二度と帰って来れない、ということが、事実あるのだ。

ご夫婦であれば、朝、天候を心配して奥さんが
「今日は雨が降るそうだから、これ持っていってね」と、差し出す傘を、
「あぁん? そんなものいらねえよ!」と出て行く主人。
当然また、今晩主人は帰って来て2人は会えると思っている。

しかし、それが2人の最後の会話だった・・・ということが、あるのだ。

だとすれば、今の一瞬一瞬、目の前の人をもっと
大切にしなければ、という気持ちになるのは当然だろう。

「死をありのまま見よ」と説く仏教の本当の目的

しかし、このことにはもっと深い意味がある。

仏教では、

無常を観ずるは、菩提心の一なり

と説かれる。

「無常」とは「常が無く続かない」ことだが、中でも、とりわけぼくらの身の上にやってくる「死」を言われる。
「観ずる」とは、「観察」や「観光」の「観」の字を書いて、「見る」ということ。
だから、「無常を観ずるは」とは、「死をありのまま見つめることは」、ということだ。

なお、世間では「無常感」と書くことがあるが、仏教では「無常観」と書く。
「感情」は続かない。
しかし、ぼくらが思うと思わざるとに関わらず、無常は変わらない事実なのからそれを「ありのまま見つめよ」との、これは言葉だ。

「菩提」は変わらない本当の幸福と考えてよいから、「菩提心」とは本当の幸福になりたいと思う心のこと。
「一」とは、仏教でこのように書いて「はじめ」と読み、「第一歩」ということだ。
第一歩が無ければ二歩も三歩も出てこないから、死をありのまま見つめることは、本当の幸福になる第一歩だと、ここで説かれる。

死をありのまま見つめた時、いざ自分が死んでゆかねたならないとなった時、心の底に起きる不安な心。
これを仏教では、「後生くらい心」と言う。
そんな「後生くらい心」を一念でぶち破られて、未来永遠の幸福になることこそ、仏教の目的なのだ。

だから、死をありのまま見つめることは、いたずらに暗く沈むことでは決してない。
それどころか、後生くらい心の闇をぶち破られ、生の一瞬一瞬を輝く太陽、日輪よりも明るくする第一歩なのだ。

そんなことをよく分かっておられた、さきほどの方が、亡くなられた41才の男性に何とか仏法知ってもらいたい、と思われたお気持ちは痛いほどよくわかる。

もちろんそのことは悔やまれてならないが今さらどうしようもない、ぜひまた、家に法話にも来てもらいたいし、その従業員の皆さんにも話してもらいたいと、帰り際に話されて帰ってゆかれた。

今生80年や100年といっても、仏の眼からご覧になれば一瞬だが深い因縁あるつながりを感じた1日。
そんなわずかな間の、ともに仏縁を念ぜずにおれない。合掌