あの奇妙な昔話に託された、大事なメッセージ。

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けっこう身近な、昔話にこめられた仏教のメッセージ

仏教と聞くと、すごく難しくて自分とは縁遠いもの、と思われる方も
あるかも知れないが、意外にそうではないという、
その一つの例が、「昔話」だと思う。

昔の人が、敬遠されがちな仏の教えを、
少しでもわかりやすく、子供たちにも伝えようとした努力を偲ばずにおれない。

たとえば、舌切り雀とか、
花咲かじいさんとか、
これらはとってもわかりやすい。
親切じいさんと欲深じいさんが出てきて
あからさまに結果が違う。

仏の教えは一言で表わすと廃悪修善
善いことをやって、悪いことを慎みなさい。

こういう善いじいさんみたいになりましょうね、って
何度も聞かされるから、
幼心にしっかりと、擦り込まれてゆく。

だけど、中に釈然としない話があった。

それは、浦島太郎の話。
助けた亀に連れられて 龍宮城に行ってみれば
タイやヒラメの舞を 乙姫様が見せてくれた、
だから、浦島太郎のような善い人になりましょうね、って聞いたはず。

だけどそれなら、どうして最後、浦島は玉手箱を開けた瞬間白髪の老人になってしまうのか?

これはもしや、乙姫様の逆襲?

でも仏教を学んでみてわかったこと。
そこにこそ、人間の真実がある。

鋭い仏の慈悲の眼が光っていた。

浦島の謎を解くカギ

浦島太郎の職業は何だろう?

それは、漁師だ。

だとしたら、乙姫様率いる海の魚ファミリーからしたら
自分の仲間をさんざん殺戮してきた、
まさに浦島こそ憎き目の敵だったかもしれないのだ。

よく龍宮城で彼をとっちめずに生かして返したものかと思う。

もし浦島が本当に善人たらんとすれば、多くの魚の命を奪ってきた、
その釣り竿をこそ、即座にへし折って懺悔すべきだ。

では、彼はその釣り竿を折ることができるか?

できない。できるはずがない。

一家の大黒柱として
妻子の生活を支えなければならないのだから。

浦島はふつう、善人の代表みたいな人。

しかし微塵の悪も見逃さぬ仏の眼からすれば浦島は、
そしてぼくらみんな、「悪人」ということになってしまうのだ。

仏教で教えられる「殺生」罪

どんな人も、罪を造らずして生きてゆくことはできない。

たとえば、仏教で殺生(生き物を殺す罪)に3通りあると説かれる。

○自分で生き物を殺す「自殺」(※ 首を吊って死ぬことでない)
○他人に命じて殺させる「他殺」
○他人が殺生しているのを見て喜ぶ「随喜同業(ずいきどうごう)」

だから、肉屋さんが牛やブタを殺し、
魚屋さんが魚を殺すのは、肉や魚を買って好んで食べるぼくらがいるからだ。
すれば、ぼくらは仏の眼からご覧になれば、「他殺」の罪を犯す事になる。
そして、喜んでそれらの料理に舌鼓を打てば「随喜同業」である。

どんな生命も平等だから、人間の命だけを尊いとするのは
勝手な言い分だとお釈迦さまは説かれた。

首を絞められる鶏がバタバタもがくのも、
船に挙げられた魚がピチピチはねるのも死にたくないからだ。
ぼくらが無実の罪で殺される無念さと同じはずだ。

しかし、そんなふうに、動物の命を奪わずして生きて行けない。
それが、悲しいかな人間という存在なのだ。

肉を食べなければよい、という単純な話でない。
野菜を作るときでも農薬で虫を殺すし、
血を歩いていても、踏みつぶす。
やはり、殺生せずして生きて行けないのが、すべての人なのだ。

だから、この世界には、仏の眼からご覧になれば
あの人は善人、あの人は悪人、なんて区別はない。
つまり、みな悪人だ。

釈迦の本当に伝えたかった、たった1つのこととは

ここまで聞くと、みんなびっくりする。
というか、普通は反発する。

ところが、仏の慈悲は苦ある者にひとえに重し。
仏の慈悲は、悪人(=苦しんでいる者)にこそ、
余計にかかるから、悪人(=苦しんでいる者)を目当てに助けるのだ。

どこからみても善人の浦島太郎。しかし、あっと言う間に一生は終わり、その罪だけは背負って死んでゆかなければならない。これが人間ではないか。

 だから、釈迦が本当にぼくらに伝えたかったことは
「そんな悪人が、本当の幸せになれる道」。
それが「悪人正機」とも言われる所以。

浦島太郎の話を考えた人は、やはりすごいと思う。

 

PS

ちなみにこれは、聞き誤りやすくて諸刃の剣だ。
「じゃあ、人殺しとか、悪いことをやればやるほど、仏の救いに近いのか?」
と質問を受けることがある。
当たり前だが、決してそういうことでない。
それについては長くなるからまた別の機会に。